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弁護士小杉晴洋 詳細経歴

2023.04.20

メンバー紹介

1 誕生から幼稚園生

1984年5月30日午後4時02分 横浜市にて出生。小杉家に長男として生まれる。小杉家は父方の祖母の系譜。祖母が一人っ子であったため小杉家を残すために、祖父が婿養子になった。祖母は滋賀の生まれ育ちで、幼い頃は裕福であったが、戦争で田畑を取り上げられてしまい、また、祖父がギャンブルで作った借金のため残りの資産もなくなってしまったため東京へ出ることに。祖母は私の父親が生まれる前から、「小杉家は三代で再興する」と話していたようで、その三代目というのが私である。そうしたこともあり、私は祖母に溺愛されて育った。

母親と祖母が好きな赤ちゃんだったと思われる。

1989年4月 羽沢幼稚園入園。負けず嫌いな子どもだったそう。リレーで手を広げて走っていた。鳩組の子らは悪いのが多く、少し怖がっていた。

2 小学生~中学生

1991年4月 横浜市立菅田小学校入学。侍が好きだったため、剣道を習う。侍のような想像をしていて、腰に竹刀を持って立っていたが、「竹刀は前に持ちなさい」などと指導されるなど、イメージしていたものと違い、事前のワクワクに比して剣道は面白くなく、引っ越しを機にやめた。他の習い事であるピアノ・水泳は、引越し後も続けた(小学校高学年まで)。当時の菅田地区は悪い子が多く、引っ越して良かったように思う。マンションの友達たちと仲がよく、学校では、同級生の子らの中でリーダー的な存在だった。

1993年4月 横浜市立上山小学校転校。小学校2年生までは祖母と叔母の住む家の近くに住んでいたが、同じ横浜市内ではあるが少し遠くに引っ越すことになった。引っ越しを機に少年野球を始める。守備は下手であったが、打撃はよく、打率は4割を超えた。野球チームの仲間と、よくベイスターズ戦を観に行った。3年生の秋、自宅の近くで交通事故に遭い、足を骨折した。父が加害者にすごい剣幕で怒鳴っていたのを記憶している(父が自分のために他者に怒ることがあるんだと驚いた。)。また、母のパートを手伝い、チラシのポスティングをしていた。3年生の頃は、引っ越し1年目であり、慣れることに必死だったのだと思うがあまり楽しかった記憶はない(いじめられていたわけではない。)。4年生で少しずつ慣れていき、5年生以降は担任の本田先生との相性もあってか、とても楽しかった。父と将棋をする日が続き、父が仕事に行っている間は詰将棋の本をやり、どんどん将棋が強くなっていいた。担任の先生を負かすほど強くなった。成長期を早く迎え、5年生の頃には声変わりが始まっていた。小学校高学年になるとクラスの中心的な存在になり、友達も多く、先生にも慕われた。担任の先生が教育委員会の関係で不在にした日には、事前打ち合わせの上、代わりに授業をすることもあった。小学校高学年でだいぶ自信をつけたように思う。

1997年4月 横浜市立中山中学校入学。軍隊のような野球部で、野球がつまらなくなった。私は不良ではなかったが、不良グループとも適度な距離を取って過ごしていたような感じだった。おそらく生きるための術であった。中学3年頃から高校受験のため勉強を始め、理数系は5評価だった。はじめて彼女もできる。

3 高校生~大学生

2000年4月 私立日本大学第三高等学校入学。中学のときの成績のスコアは90で、学区内では3番目の高校相当であったが、1番高い川和高校(110相当)を受験して、私の中学で唯一の不合格者となった。滑り止めであった日大三高に入学する。真面目な生徒の多い学校であったため、目立つ存在となった。遅刻して登校する日々であったため、入学してすぐの4月の段階で、1つ上の不良グループの先輩方と町田で鉢合わせし、そこから仲良くなった。はじめて一目惚れというものをしたが、2年間の交際の末、高校3年生の夏にフラれた。1年・2年時は彼女と遊ぶか、モリケンなどの友達と遊ぶか、バイトをするかで、勉強はほとんどしなかった。朝が弱く、何かに縛られるのが嫌いな性格であったため、自由に登校した。1年次の担任の高瀨先生はごまかしてくれていたが、二年次の担任の先生は、素直に遅刻のスコアをつけ、年間で200回を超える遅刻数を記録した。本来進級できない数であるが、担任の小泉先生が頭を下げてくれて、春休みの登校と引き換えに留年せずに済んだ。ただ、春休み登校すること自体に腹が立ち、高校をやめて、大検を受けると反発したが、小泉先生になだめられ、多少春休み登校を少なくしてもらって、何とか進級した。小泉先生には多くの苦労をかけた。

1年次・2年次は麻雀にはまり、大会にも出場していた(予選は1位で通過し、決勝は3位だった)。コンビニと工場でのアルバイトもしていて、お金に困る生活はしていなかった(エルメスの腕輪とかつけていた)。通学定期代は自分で払っていた。父親がリストラに遭い、父親の涙を始めて見た。私は父を尊敬していたので、実力のある人が報われる社会であるべきと強く思うようになった。

3年次、チャラチャラした格好で校内を歩いていたところ、生活指導の教師から「そんなんじゃ日大いかせねーぞ」と言われ、「日大なんか行かねーし」と反発。その反発で勉強を始め、明治大学法学部に合格した。数学が得意であったが、木村先生のおかげで日本史が好きになったのと、弁護士という職業を意識し始めたため文系(法学部)に進んだ。多くの友達に慕われる有意義な3年間であった。サボってはいたが、高校は好きだった。

2003年4月 私立明治大学法学部法律学科入学。はじめは色んなサークルに顔を出していたが、サークル飲みというのが嫌いで、田舎者が大学デビューして楽しんでいるのに嫌悪感を覚え、はみ出し者になった。同じはみ出し者っぽい連中と麻雀にふけるようになる。高校の時から続けていたコンビニのアルバイトに加え、家庭教師もやった。祖母のすすめもあり、大学一年次から歴史小説を読むようになる。坂本龍馬にしても山内容堂にしても高杉晋作にしても、みな若い頃に修行や勉強をしているという共通点に気づいた。これまで修行と言えるほどの勉強もしたことがなかったため、自分も本気で勉強して修行しなければならないと思い至る。20歳になったのを機に、司法試験の勉強を始め、当時付き合っていた彼女とも別れ、司法試験に受かるまで彼女は作らないと決める。1年次は6単位しか取っていなかったが、2年次に70単位くらいを取って留年を免れ、なんとか4年で卒業する。大学時代はあまり記憶になく、つまらない学生生活であった。

4 司法試験受験勉強期~修習生

2007年4月 フリーター。大学院には簡単に受かると思っていたが、大学の成績がよくなかったせいか、4年次に受験したところはすべて不合格になり、はじめての挫折を味わい、フリーターになる。深夜のコンビニアルバイトをしながら、毎日毎日実家で勉強をしていた。とてもつらくて暗い1年だった。友人の結婚式のためにビデオレター出演を依頼されたが、嫌でしょうがなかった。アルバイトに向かう途中のバス内で発狂しそうになるなど、精神的におかしくなっていたように思う。

2008年4月 私立中央大学法科大学院入学。大学院では麻雀仲間もいたが、基本は司法試験合格に向け勉強を頑張った。奨学金は無利子のやつと有利子のやつを借りられるだけ借りた。毎月30万程度の手取りがあった。将来返せなくならないかという不安はまったくなかった。将来の金を今手に入れられるなら、若いうちにお金を持っておいたほうが良いという考えであった。2009年夏に群発頭痛に襲われ、受験前の夏を3か月間勉強できずに過ごしたが、「良いハンデだ」くらいにしか思わなかった。

2010年9月 司法試験合格。大学の成績があまりよくなったので、司法試験合格よりも大学院入学の方が苦労したように思う。

2010年11月 司法修習64期採用。地元である横浜修習となった。起案の成績が良かったこともあり、裁判官や検察官からスカウトされた。弁護士法人サリュの創業者で代表であった(当時)谷清司先生のスピーチに感動を覚え、同法人に応募し、入所することになった。私の師匠である。

5 横浜弁護士会(現神奈川県弁護士会)

2011年12月、横浜弁護士会(当時)で弁護士登録。交通事故を中心に、請負代金請求・民事保全・刑事事件(強盗など)などをやる。仕事を覚えるのが楽しくて、来る相談来る相談受任をしていた(受任率80%程度)。

修習でお世話になった安藤肇先生や、横浜弁護士会の諸先輩方にも可愛がってもらい、同期の仲間たちとも仲が良く、充実した弁護士生活を送っていた。

6 福岡県弁護士会

2013年11月福岡県弁護士会登録。法人の人事の関係で、横浜弁護士会から福岡県弁護士会に登録換えすることになった。弁護士法人サリュ福岡事務所の所長を任せてもらえるということで、やる気に満ち溢れていた。

はじめは福岡県弁護士会の新入会員歓迎会で、「福岡では流行らない」「失敗する」など言われ嫌な気持ちをしたこともあったが、福岡の方々は温かく、徐々に福岡県弁護士会にも福岡での生活にも馴染んでいった。

特に交通事故委員会の先生方は素晴らしい先生が多く、現在も私の居場所となっている。

福岡の先生方は優秀な先生が多く、中でも春山九州男先生を尊敬している。憧れの弁護士であり、理想像である。

弁護士法人サリュはメンバー間の仲もよく、居心地もとても良かったが、自分で経営をしてみたいという思いが日に日に強くなり、2020年8月、百道浜の地で小杉法律事務所を開設した。

百道浜という場所は、私の弁護士としての育ての地である福岡にあって、横浜と同じような雰囲気を感じるため、自分にとっては居心地の良い場所である。

※写真は小中学校の親友で事務所のロゴデザインをしてくれたデザイナーの森田賢吾くん(モリケン)

7 趣味・特技などその他情報

趣味 娘と遊ぶこと、ホテルでぼーっとすること
特技 太鼓の達人、枝豆の早食い
好きな本 one-piece、スラムダンク、化物語、エッセンシャル思考、ストレングスファインダー
好きな映画 紅の豚、天使にラブソングを
好きな観光地 琵琶湖
好きな音楽 中田ヤスタカ
好きな食べ物 じゃがいも、フルーツ全般
好きなテレビ番組 ハッチポッチステーション
好きな有名人 神木健児
好きな休日の過ごし方 散歩
好きなスポーツ 野球(日本プロ野球選手会公認選手代理人登録)

この記事の監修者弁護士

小杉 晴洋 弁護士
小杉 晴洋

被害者側の損害賠償請求分野に特化。
死亡事故(刑事裁判の被害者参加含む。)や後遺障害等級の獲得を得意とする。
交通事故・学校事故・労災・介護事故などの損害賠償請求解決件数約1500件。

経歴
弁護士法人小杉法律事務所代表弁護士。
横浜市出身。明治大学法学部卒。中央大学法科大学院法務博士修了。

所属
横浜弁護士会(現「神奈川県弁護士会」)損害賠償研究会、福岡県弁護士会交通事故被害者サポート委員会に所属後、第一東京弁護士会に登録換え。日本弁護士連合会業務改革委員会監事、(公財)日弁連交通事故相談センター研究研修委員会青本編集部会。

弁護士小杉晴洋の詳しい経歴等はこちら

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